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成人式の思い出と、人間関係の整理術

新成人を迎えられた皆さん、おめでとうございます。

民法が改正されて18歳が成年となりましたが、結局、成人式の扱いってどうなったんですかね。うちの地元は「二十歳の集い」という名前で開催したようです。やっぱり「成人=20歳」というところは据え置きなんでしょうか。

 

私は成人式に出なかった

それはさておき、私は40歳なので、ちょうど20歳の2倍ですね。自分が成人したのは20年前のことになります。

コロナ禍で成人式が中止になってしまい、つらい思いをされた方も多いと聞きますが、私自身は当時、流行病も何もないのに成人式に出席せず、夜の同窓会だけ参加しました。なんでやったっけ?

少し記憶があやふやなのですが、過去を振り返ってみました。

 

理由①親しい友人が出席しなかった

思いつく限りだと、これが一番の理由ですね。

高校の頃に一番仲の良かった友人は市外から通学していた人なので、うちの地元の成人式には出ません。また、小学校から仲の良い友人は、当時ひきこもり生活をしていたので出ないと。中学校の時に仲の良かった友人も、特別会いたい人もいないので行かない、と言うので、じゃ私も行かないで良いか、と。

 

理由②ちょうど誕生日と重なっていた

ハッピーマンデー制度が2000年に始まり、私が成人した頃には、既に成人の日前後は三連休になっていました。で、地元の成人式のある日曜が、ちょうど私の誕生日だったんです。

多くの自治体は、成人の日の月曜に成人式を行うと思います。うちの地元は田舎なので成人式のために帰省する人が大半です。だからたぶん、夜は同窓会で楽しんで、翌日ゆっくり都会へ戻ってもらおう、という配慮があるんだと思います。ちなみに今年も日曜に開催していました。

ただ、大学の同期の大半は、月曜の成人の日に成人式がある。というわけで、土曜から日曜にかけて誕生日を大学の友人に祝ってもらい、日曜の昼の電車で地元に帰り、夜に中学の頃の同窓会に参加、ということにしました。そもそも地元には年1~2回は帰ってくるし、本当に会いたい友達とはその時に会えばいい。それなら、大学の気の合う仲間に誕生日を祝ってもらった方が楽しいわ、と思い、最終的に欠席しました。

ちなみに両親は「好きにしたらいい」という感じでした。振袖着るわけではないですしね。

 

成人式を欠席したことに、数年間はすごく後悔した

で、成人式に行かなくてどうだったかというと、ものすごく後悔しました

私が参加した夜の同窓会は、あまり盛り上がらなかったのをよく覚えています。参加者が少なかったのが原因。振袖着たまま飲むわけにはいかないので、多くの女の子は式が終わったら帰る。女の子が来ないんやったらええわ、って感じで男の子も集まらない。これなら帰省する必要もなかったなーと、少し残念な気持ちで大阪に戻りました。

それから数年。

仲の良かった同級生の2人が、立て続けに自死してしまったんですね。

 

私が中学を卒業した頃って、まだ携帯電話やPHSを持っていない人の方が多かった。ポケベル世代ともちょっとズレています。高校の途中から「Pメール」機能のついたPHSが売れて、持っている人が増えてきた、という世代です。

だから、中学校で仲の良かった同級生の中にも、連絡先がわからずに疎遠になっている人がいて、先述の2人も、しばらく連絡が途絶えていました。彼らと再び繋がることができる最後のチャンスを、私は逃しました。昼間の式典には出ていたけど、夜の同窓会には来なかったんです。

自分には何もできなかったかもしれませんが、何かできたかもしれない。そう思うと、なんで成人式に行かなかったんだろう、と。

 

今ではその気持ちも変わった

でも、今では後悔の気持ちは薄れました。亡くなってしまった友人のことは、もうどうしようもない。いつまでも悲しんでいても仕方ない。20年弱の時間が経って、なんとか、そう思えるようになりました。

あとは、一度地元の同級生と疎遠になったことが、自分の人生にとってプラスに働いたこともあるのかな、と。

 

もし、同級生とずっと連絡を取り合っていたり、あるいは、何かのきっかけで好きだった同級生とかと再会していたら、彼/彼女らから「いつ帰ってくるの?待ってるよ」なんて、ちょっと疲れている時に言われたら、大した経験やスキルも積まないまま、田舎に帰ってしまっていたと思います。

地元の同級生とのつながりが薄くなったからこそ、都会にきちんと軸足を置いて仕事ができましたし、新しい友人もできました。同じ大学/サークル/職場でなかったら絶対に接点がなかったであろう人とも、知り合うことができました。

 

節目節目で、人間関係を整理することの大切さ

田舎でも都会でも、面倒な人間関係と言うのは多かれ少なかれあるもんです。私は滅多に人を嫌いになることがないのですが、それでも面倒やな、と思うことはあるので、SNSとかが大好きな皆さんはもっと大変だと思います。そういった人間関係をリセットするのに、成人式に行かないとか、転職する、U/Iターンをする、というのは良いのかな、と正直思います。

付き合うのが面倒な人に対しても、なかなかこの年齢になると、うまくその人の視界からフェードアウトする、というのが難しいことがあります。仕事のお付き合いとか、保育園とか学校とかね。そんな時は、物理的に関係を断つしかないわけです。

「あれ、あの人、この大事な集まりに来てないや」というのは結構な威力がありますよね。それでいいんだと思うんですよ、私は。人間関係に疲れるくらいなら、いっそのこと全く別の場所に行ってしまった方が早いです。

 

地元のイオンモールの写真スタジオの前ではしゃぐ新成人たちの集団、から少し離れてその集団を見ている新成人カップル、を、遠くから子供と手をつなぎながら見ていた私は、そんなことを考えていました。

2022年投資の振り返り

みなさま、今年もよろしくお願いします。

前々身、前身のブログを含めると20年目に突入したようですね。我ながらよく続いてるなぁと思います。

さて新年一発目は、昨年の投資を振り返ってみましょう。まずは結果から。

 

2022年損益

実現損益 +2.98%(株式投資のみ)

 

ホームラン銘柄 なし

 

ヒット銘柄① 西松屋(7545)

買:1350 売:1515

 

ヒット銘柄② AGS(3648)

買:600 売:680

 

アウト銘柄① UBE(4208)

買:2218 売:1953

 

総括。

コロナ禍、ウクライナ侵攻、円安、あらゆる物の値上げ、長期金利上昇と、もりだくさんの一年でしたが、私の持っている株はそこまで乱高下することなく、比較的落ち着いていたように思います。分散投資が功を奏した感じですかね。
今年は3つ、大きなトピックスがあります。

 

①優待銘柄を漁ってみた

今年は優待銘柄をいろいろ漁ってみました。私は特定企業のファンになるということが滅多にないのですが、時々「おっ」となる銘柄がありますね。最近は優待を取りやめる会社が増えてますけど、会社を知るきっかけになりますので、カタログギフトとか金券みたいに意味のないやつ以外は、継続したほうがいいと個人的には思います。

ちなみにいいなと思ったのは以下の銘柄です。

 

学研HD(9470)

通販サイトで使える2,000円分のポイントが貰えます。お子さんのいるご家庭にはいいですよね。使い道にはまず困りません。

学研と聞くと、我々世代は「学研のおばちゃんって今でもおるんか?」となりますが、教育分野の業績は安定してますし、介護事業も順調。将来性に魅力があります。

アイ・ケイ・ケイ(2198)

結婚式場を運営しています。バウムクーヘンの優待をもらいました。引菓子って結構美味しいですよね。インドネシアに結婚式場を展開しているというのも面白い会社です。

利益確定で売ってしまったのですが、コロナの収束は冠婚葬祭業界にはプラス影響ですし、また機会があれば買いたいです。

 

一方、微妙だったのは以下の銘柄です。

ポーラHD(4927)

ポイントに応じて自社商品がもらえます。が、選択肢が少ないです。オルビスポイントに換えられたら一気に実用性が高まるんですけどね。

投資対象としては、中国情勢に反応して株価がよく動くので難しいです。実際そこまで海外比率は高くないんですが。新ブランド戦略が上手く行っておらず、業績もイマイチなので、優待貰う前に売ってしまいました。

DCM(3050)

ホームセンター業界2位の企業です。DCMグループ全店で使える商品券がもらえます。四国はダイキがいっぱいあるので嬉しいのは嬉しいんですけど、何にでも使える商品券なら、別に配当金で良いよね、っていう気がします。数年前まではオリジナル商品詰め合わせだったんですけど、その頃の方が楽しかったな。ここも今年売っちゃいました。

 

②銀行・金融株をすべて手放した

今年のもう一つのトピックスとしては、銀行・金融株をすべて手放したこと。特に銀行株は昔から結構好きで、いろいろ持ってたんですが、改めて「銀行の未来」ってのを考えた時に、やっぱり将来性ないよね(企業としては存続するだろうけど)ってことで、全部売りました。短期トレード目的以外では、恐らくもう保有することはないでしょう。

 

塩漬け株をようやく手放した

最後は断捨離、塩漬け株損切りです。

今期の損益は+2.98%と、夏ごろまでアゲアゲ相場だった割に率は低いんですが、10%以上の評価損が出ていた銘柄をすべて処分できたので、満足度は高いです。

UBE(旧宇部興産、4208)は社名変更でご祝儀的な上昇があるかな、と思いましたけど、全くありませんでした。ので、約2年塩漬けにしていた株を処分。高配当銘柄のはずが、トータルしてもマイナスになっちゃいました。

よく知らない業界の株を買ってはいけません。勉強になりました。

 

DNC(4246)は高値掴みしてしまい、約4年間、ちまちまナンピン買いと売却を繰り返してきたんですが、ようやくすべて売却。トータルで20万円以上損しました。

技術力も将来性もある良い会社だと思いますが、利益が全然出ていません。いかんせんマツダトヨタに引っ張られ過ぎなのと、あとは北米と新本社の大型投資タイミングが悪かったですね。

 

今年もぼちぼち

去年の10月くらいから、思うところがあって現金比率を高めています。このブログに書いてるのは私の個人資産の話なんですが、以前は現金比率は20%ほどだったのが、いまは70%ほどにまで上がっています。

金利も為替も全く読めないんで、3月頃までは様子見ですね。

 

ちなみに、年間損益は10年連続プラスになりました。日経平均は上がり続けてきたので、当たり前と言えば当たり前なんですが。今年も好転材料はなさそうですが、プラスを継続できるようにぼちぼち頑張ります。

 

兄弟げんかについて

子どもの頃に、殴り合いや格闘技を経験せずに育ってきた人(妻です)に、兄弟げんかについて話す機会がありました。結果的に、ちゃんと伝わったのかわからないけど。

「今まで平和に暮らしてきて、かつ同性の兄弟もいなかったので、兄弟のケンカをどう扱ったらいいのか分からない」という方も多いかと思いますので、何らかの参考になればと思い、まとめてみます。

あ、念のためですが、多分に私の主観が入っています。それだけはご留意願います。

 

そもそも幼い頃の兄弟げんかは「暴力」だと思う。

ケンカは経験者同士が、同じ階級で戦う格闘技とは違います。誰がどう見ても、体格や腕力に差のある人同士が戦うのはケンカではなく、ただのいじめ、暴力です。

だから、幼い子ども同士のケンカって、大抵が単なる暴力なんですよね。年齢差相応の体格差のある兄弟なら、お兄ちゃんが弟に勝つのは当たり前です。

身長120cmのお兄ちゃんと、身長110cmの弟の殴り合い。大人から見れば、大差ないと思うかもしれません。しかし、大人に置き換えてみると185cmと170cmが殴り合いをしているようなものです。

170cm vs 185cm


参考:http://www.mrinitialman.com/OddsEnds/Sizes/compsizes.xhtml ※このサイト素晴らしい!

 

この絵を見れば、格闘技経験があろうがなかろうが、185cmが圧倒的有利だということがわかるでしょう。でもこれね、絵だとまだマシなんです。自分の1.1倍ある人と向かい合って殴り合いをするのは、かなり怖いですよ。ちなみに私172cm58kgなんですが、190cmの人と戦うのはまず無理です。

だから、兄弟のケンカというのは、そもそも圧倒的なハンディがあると理解しないといけません。お兄ちゃんは、弟に手加減しないといけない。絶対に。

 

ケンカにはルールが必要。

ケンカは、本当の○し合いとも違います。ルールが必要です。

格闘技は同じ階級(=体重)で、同じくらいの能力の選手同士が戦います。でも、ケンカはそういうわけにはいきません。兄弟げんかは、毎回ハンデ戦です。そもそも強い方が弱い方に合わせてやらないといけません。友達とのケンカはいろんな相手と突発的に起こりますが、その場合でも、強い人から弱い相手にケンカを売ってはいけません。

また、もし弱い相手からケンカを売られて、買わざるを得ない状況だったとしても、強い方から手を出してはいけない。理不尽かもしれませんが、これは絶対的なルールです。

ボクシング元世界チャンピオンの竹原慎二さんとか、総合格闘家朝倉未来さんとかのYouTubeチャンネルで、素人喧嘩自慢を制裁、みたいな動画がちょっと流行りましたね。あんな感じで、相手から「殴られても構わない、本気で来いよ」と、どれだけ煽られたとしても、強い方からは手を出さない。それがルールです。そうしないと「強者>弱者」の構図がある以上は、ただの一方的ないじめ・暴力になってしまうんです。

あ、ちなみにこれ、大人同士でも当然のルールですよ。これが守れない大人は、ただのパワハラです。

 

ルールを理解できるまで、大人が教え込む。

まぁそうは言っても、このルールは、子どもはなかなか理解できません。当然です。おちょくられたら腹が立つし、たとえ相手がふざけて叩いてきても、痛かったら思い切り叩き返します。それが普通です。

ここで大人の出番です。これは兄弟の場合に限るというか、兄弟がいる家庭の特権と言ってもいいんですが、兄弟のケンカは、すぐに止める必要はありません。しばらく殴り合いをさせてみる。ケンカを止めるのは、一方が明らかに劣勢になった時。つまり、お兄ちゃんが思い切り殴り始めたり、上から覆いかぶさった時です。こうなったら弟は絶対に反撃できない。

これは家庭によって違いがあるべきだと思います。うちの場合は、弟がそれほど好戦的ではないので、泣いて口で暴言を吐き始めます。それに腹を立てた兄がまた弟を殴り始めてしまうので、弟が泣いて兄に立ち向かっていった時もゲームオーバーです。そこで止めないと、兄は本当に思い切り弟を殴ってしまう。弟はケガをするか、兄の大事な物に当たって壊してしまう。

やり過ぎた方を叱ることは絶対に必要。可能であればそうなる前に、大人が程よいタイミングでケンカを止めるべきです。同じことを何度も繰り返していると、本人たちは「ここでやめないとな」と理解します。むしろ、大人が教えてやらないと、いつまで経っても弟がケガするか、兄の物が壊れされるかで、毎度悲惨な結果になります。

 

他人に同じことをしないために、厳しくする。

妻は、私にいつも「お兄ちゃんにばかり厳しい」と言いますが、その通りです。本気で弟に攻撃をしていたり、自分は遊んでいるつもりでも、弟にものすごく痛い思いをさせていた時は、兄だけを叱ります。

なぜなら、ほかの家の子にそんなことをすると、取り返しのつかないことになるからです。こう言うと、自分の保身のようですが、その通り。というのも、私自身、小学校高学年の時に、他の家の子とのケンカで歯が欠けたことがあり、それが苦い思い出になっているからです。

詳細は割愛しますが、なんか痛いわーとケンカ後の歯を母親に見せたところ、大激怒。「いくら子供のケンカとは言え、後に残るケガを負わせておいて、謝罪や報告のない学校になんか行かんでもええ!」と。

その後の経緯はちょっと覚えてないんですが、ケンカ相手とその母親、担任の先生まで家に謝りに来て、さらに学校でも聞き取りがあったりして、結構な騒動になったのは覚えています。欠けた歯は治しましたし、相手の子とは中学校まで同じだったんですが、すっかり気まずくなってしまい、その一件以来、話すことはありませんでした。

 

今から30年前でそんな感じだったので、これがもし現代で、うちのオカンが、よりモンスターなペアレントだったとしたら、大問題になっていたことでしょう。もしかしたら裁判沙汰とか、関係のない先生の処分とかも起こり得る事態だったと思うと、うかつに他の家の子とケンカはさせられません。他の子よりもキレやすい子、というのは必ずいるので、特に注意しています。

 

他人の痛みはわからない。

自分より力の強い人に殴られたことのない子供は、殴られた人の痛さをわかりません。そんな子供に「他人を殴ってはいけないよ」なんてこと、言ったって伝わるはずありません。だって殴られたことないし、痛さがわからないんですもの。当たり前です。

でも、これって大人でも同じ。殴られたことのない人が、人を殴ったって、どんな痛みがあるのかなんてわからない。だからやり過ぎてしまう。

今の時代、絶対に体罰はダメです。でも、子どもが他人に与えてしまった痛みがどれだけのものなのかを、身をもって体感させることは必要だと思いますし、その行為を体罰とは言わないのではないか、と思っています(注:ここは人によってそれぞれ考え方があるし、センシティブな問題なのは理解しておりますので、あまり深くは突っ込まないようにします)。

私自身は、だからこそ、もし兄弟げんかが始まったら、終わるまでやったらいいと思うし、弟にも、やられたらやり返すように、しっかり伝えています。一方的に兄が弟を攻撃していたら、兄を全力で叱ります。鬼になって心の底から叱ります。それぐらいしないと、殴られた人の痛みって絶対にわからない。

 

子どもはケンカの中から学ぶことがたくさんあります。親はそれを簡単に止めないようにしないといけません。でも、当然どちらかがやり過ぎた時は止めないといけない。自分がケンカをせずに育ってきた人は、なかなか難しいかもしれませんが、そこはもう、慣れしかないです。時には心を鬼にする必要があると思います。

妻には「そこまで感情的になって言う必要はない」と言われるんですが、それも違う。ただでさえ言葉では伝わらない思いなのに、こちらが感情を出して語り掛けないと、相手に伝わるはずがない。うわべだけの言葉でごまかそうとするのは、(最近の?)大人の本当にダメなところだと思います。

 

ここからは余談。大人のほうが弱いよね。

ここからはちょっと余談です。いじめをする子に「いじめられた人の気持ちが分かるか!?」なんて美しいセリフ吐いたって、全く効果がないですよね。だって、わかってたら普通そんなことしないし。言っても無駄、って考えたらすぐにわかる話。でも大人の方がこのことを理解していない。理詰めと優しい気持ちで何とかしようとする。

いじめや暴力は理詰めと優しさじゃどうにもならないんです。

毎日いつの間にか弁当にゴミが混ぜられている生徒に「いつか終わる日が来るよ、だから今は我慢しろ」なんて言えるか?

パワハラ上司?そんなの労基にチクっちゃえばいいじゃん。嫌なら辞めたらいいじゃん」なんて呑気なアドバイスできるか?

 

残念ながら、いじめや暴力には、自分一人の力では勝てません。集団や組織を動かすか、その場から物理的に立ち去る・逃げるしか解決手段はないと言ってもいいと思います。それは、もう仕方がないのかもしれない。

でも、家庭教育において本当に大事なのって、子どもがそのいじめや暴力の主犯にならないように、加担しないように育てることじゃないでしょうか。

力の強い者は、弱い者を守る。弱い者は、強い者の足りない部分を補う。それが家庭のルール、社会のルールだと教えることが教育であり、倫理であると思います。

 

と、熱く語りましたが、そこまで大人が深く考えなくても、ほとんどの子どもは「いじめはよくないよね」「それパワハラじゃん」ってよく言います。事なかれ主義、見て見ぬ振りをして生きてきた大人の方が、はっきり言って子どもよりも弱い

 

ちょっと思い出話になるのですが、自分が勝てる相手ばかりとケンカする子いますよね。私を昔いじめていたのはそういうタイプの子でした。自分より弱い子ばかりにコソコソちょっかい出して、キレたところを反撃するタイプのいじめっ子です。

こういうタイプの子って、自分から手を出さないから、怒られにくいんですよね。ケンカは基本的に先に手を出したほうが負け、というのを理解した上でやってる子が多い。俺からは手を出してない、殴られたからやり返した、と。むしろ、俺らの仲間がやられていたから俺は助けただけだ、と。

その子もクラスの中では「気は優しくて力持ち」的なガキ大将の立ち位置に、大人からは見えていたと思います。でも本当は、標的にされたくなくてヘコヘコする奴らを手下に従えた、ただ腕力が強いだけで弱い者いじめのクソ野郎なのにね。

でも、大人になって、大人からの目線だけで、そういう子の本性を見破ることができるかどうか考えると、難しいと思います。当時はずっとチクショウ、と思ってましたけど、ちゃんと信頼できる大人に声を上げるべきだったな、と反省しています。チクったとか言われるんだろうけど、殺されるほどのことはなかっただろうしなぁと。

 

終わりに:大人も子供も、ちゃんと痛みをわかる人になるべき。

最後になりますが、兄弟のお子さんのいる方は、しっかり喧嘩をさせておくべきだと思います。また、兄弟がいてもいなくても、子どもは一度は必ず格闘技を習わせるべきです。その時は、親も一緒に体験してみるべきです。

自分よりも強い相手がいること。人は殴った時も、殴られた時も痛いこと。強い人は、弱い人を相手にする時は、必ず手加減をすること。

これらをしっかり教えられる大人でないと、子どもは「他人の痛みの分かる人」すなわち「他人の気持ちが考えられる人」には育たないと、私は思います。

 

今回の記事は偏った考え方が多いかもしれません。でも、私は様々なトラブルに巻き込まれながらも、40年生きてこれました。兄弟げんかの相手としてしっかり鍛えてくれた兄と、ケンカで負けて泣いても甘やかさず、厳しく優しく育ててくれた親に感謝しています。

 

憩務所 夏爐

テレワークの作業BGMにお勧めの音楽、なにかある?と最近聞かれて、Django ReinhardtとかEthel WatersとかArt Tatumを紹介してたら、学生時代にアルバイトをしていた「憩務所 夏爐」(けいむしょかろ)という喫茶店のことを思い出しました。

ジャンゴさんやエセルさんはこのお店で知り、私がシフトに入る時はよくかけさせてもらっていました。

夏爐のことや名物だったレモンライスを紹介するブログやサイトは、今でもたくさん残っているので、特に自分がお話しすることもありませんが、いろいろと自分に影響を与えてくれたお店でした。

客だった頃は2ヵ月に1回行くか行かないか、ぐらいだったのですが、店員としてお世話になり閉店するまでの3年間は、とても長い時間を過ごしたお店です。

今でも家のコーヒーカップはDANSKです。お客さんが来た時に出すコーヒーは三喜屋さんです。家を建てる時、将来はちょっとした雑木林になるように庭を作りました。

雨の日に、Art TatumをBGMにコーヒー飲むと、ふと杉本町公園の景色を思い出します。

『エシカルワークスタイル 自分にも人にも優しい働き方を考えてみる』(池田晃一著、日経BP)読了

この前『ANTHRO VISION』という、かなり読み応えのある本を読んだので、今回は、そこまで重たくなさそうなトレンドの話題で、さらっと読めそうな本を図書館で借りてみました。

(前回の感想はこちら。全力でお勧めします)

『ANTHRO VISION (アンソロ・ビジョン) 人類学的思考で視るビジネスと世界』(ジリアン・テット著、土方奈美訳、日本経済新聞出版)読了 - Aporia

 

著者の池田氏は、オフィス家具で有名な「オカムラ」の研究所の研究員さんです。

研究所持ってるんや!すご!と思いましたが、調べてみると、従業員3,800名、売上高2,500億円を超えるグローバル企業でした(2022年3月期)。思ってた以上に大きな企業でした。すみませんでした。

 

やっぱり専門家はすごい。

いやいや、軽い気持ちで手に取ったけど、この本かなり面白いです

「コロナ禍で色々変わったけど、想定内のこともあったし、想定外のこともありました」っていうのがベースなので、たぶんそこまで売れない本だと思うんですが、それが残念に感じるくらい。

というのも、インタビュー(対話、討論?)している大学の先生方の視点が素晴らしいんです。

東京女子大学現代教養学部専任講師の正木郁太郎さん、東北大学大学院工学研究科准教授の本江正茂さん、明治大学総合数理学部准教授の渡邊恵太さん。

失礼ながらお三方とも、本書で初めて知った方なんですが、この方々と池田さんとの対話の章がめちゃめちゃ面白い。さすが専門家。

特に最後の渡邊先生の「情報の可視化がもたらす価値を考える」「デジタルとフィジカルは対立しない」という視点が響きました。

 

ものづくりの情報は、BtoBの領域のサプライチェーンプロトコルとして整理するのが前提です。そのうち消費者が知ってどうなる?という情報には完全に蓋をするような設計があってもおかしくありません。もしも問題がある場合にアラートが出るか、消費者に不利益が生じない、まさに倫理的な設計なっているか。その設計者を信頼できるかという問題にたどり着くと思います。(p.187)

「本物とは何か」を定義するのは非常に難しい。ディスプレイで見ている物や人間がすべて偽物なのか、バーチャルな空間の体験がすべて偽物なのかといったら、そうはいい切れないと大半の人は感じるはずです。世界を認識する際に、本物と偽物、本物とコピーを二分するような価値観が本当に成立するかは考えたほうがいい。(p.188)

 

働き方への意識って、そんなに変わらない

この本を読んで、いろいろ考えましたけど、やっぱり働くことについての個人の意識は大きくは変わらないよね、と思いました。

コロナ禍で「新しい働き方」っていうのがバズワード的に注目されましたけど、テレワークだとか副業だとかは従来からあったわけですし、コロナが落ち着くとテレワークをやめる会社が相当数あることもわかってきました。

また、個人が持つ「働き方への意識」は、本書のP.150にあるような「向上型」「(現状)充足型」「(現状)回避型」「(現状)維持型」に分かれていると私も思うのですが、これって、結婚・育児・教育・介護等々、家庭環境で多少変わることはあっても、実のところは個人の性格に大きく関係するもので、人生の中で大きく変わるものではないのかな、と。

 

大人が変われないのならば、子どもを変えるしかない

そのこと自体は、良いとも悪いとも思いません。どんな考え方を持っていたって、それは個人の自由ですからね。

でも、これから日本は大きく労働人口が減少していきます。今のままでは、増え続ける高齢者を経済的に支えることはまず不可能です。100%無理。だから困る。

解決策と言うか、いい方向にもっていくには、働く前、つまり10代の中学生とか高校生とかの時に、「向上型」や「充足型」となるように洗脳しておくのがいいのかな、と思います。洗脳という言葉はよくないけど、大人は変われないのだから、そうせざるを得ないのかなというのが今の私の考えです。

YouTuberとかスポーツ選手みたいな職業が「将来なりたい職業ランニング」の上位に入らない国を作る。

夢がないとか言われそうですが、そうしないと、日本はもうやっていけない。いやマジで現実問題そうなんですよ。

 

おわりに

この本で一つだけ残念だったのは、アースカンパニーとかいう会社の代表者のインタビューを、まとめの直前に載せてしまっていること。

アカデミックなアプローチがいい本だなと思い読み進めていたのですが、最後に、海外を本拠地にエリートや富裕層向けに商売をしている「毛色の違う」企業の、薄っぺらいインタビューは載せなくても良かったのにな、と強く思いました。

 

 

気軽に手に取った割に、いろんな視点を与えてくれる良い本でした。とはいえ1,980円というのはちょっと高い気がしますので、控えめに星3つ。

今度、渡邊先生の本を読んでみます。

「伊藤レポート」という名称に抱くちょっとした違和感

ちょっと前になるのですが、経済産業省は2022年5月に「人的資本経営の実現に向けた検討会報告書」を公表しました。

「人材版伊藤レポート2.0」と言われるやつです。

 

なんで人の名前?

中身に入る前に、私、いまだにこの名称に慣れません。個人名の付された報告書というのは、珍しいこともあり、違和感を抱きます。

なんでこんな名前が使われているのか調べてみると、イギリスにはJohn Kay氏のまとめた「Key Review」というのがあって、これのパクリである、という説が正しそうです。

 

「伊藤レポート」は正式名称。

で、よく「いわゆる伊藤レポート」とか「通称伊藤レポート」とか書いている書物や文献をよく見かけるんですが、2014年に出された元祖・伊藤レポートである「持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~」プロジェクトの
最終報告書にも「伊藤レポート」と、はっきり書かれています。

今回の報告書のタイトルにも「人材版伊藤レポート2.0」とサブタイトルとしてわざわざ銘打っているし、経済産業省のサイトにも公式に使われてますね。

www.meti.go.jp

 

責任逃れ?

さらに、レポートの冒頭には伊藤邦雄氏の肖像がでかでかと貼られています。怪しい通販広告によく書かれている…

「個人の感想であり、効果には個人差があります」

のような感じで、「このレポートの内容は、あくまでも伊藤先生の意見です」みたいな弁明に見えて仕方がない。

間違ってても役所は悪くないからね、と。

 

多様性に逆行してるでしょうよ

元祖「伊藤レポート」がそこそこ世間から評価されたからって、「伊藤レポート」を乱発するのは良くないと思います。

何より、ある特定の個人を座長とした公的な研究会やプロジェクトをいくつも立ち上げること自体、多様性に逆行してるよね、と軽く突っ込みたくなります。

内容はこれから読み込んでみます。